こんにちは、トーコ(@lily_tohko)です。
前記事では、私が実際に過去経験したイジメの全容を綴りました。
この記事はその続きですが、ここからはあの体験の中で見出したイジメに関する私個人の意見を書いていきたいと思います。
目次
「イジメに遭う=本人にも原因がある」は大嘘
イジメがメディアやSNSで話題になる度に、こんな意見を見たり聞いたりすることがあります。
結論から言って、そんなワケありません。
相手は「自分に強く出ない人」なら誰でもいい
たまたまイジメ加害者の目に留まったのが被害者だった。
ただそれだけです。
いじめる側にとって、ターゲットは自分に強い態度で出る人でなければ誰でもいいのです。
たまたま目に留まった、自分に強く出ないであろう相手が被害者だったというだけで、他の誰かであっても似たような人が居れば標的になりうるのです。
もっと言うと、1つのクラスでイジメを受ける被害者が常に同じ人とは限りません。
何かキッカケがあればターゲットは常に変わる可能性があるし、だからこそ見て見ぬふりをするクラスメートや周囲の人間も居るのです。
イジメる側からすれば単純に個人の性格(穏やかで内気、やり返してこない等)で相手を決めているに過ぎないので、イジメられる側に原因があるなんてのはただの暴論でしかありません。
つまり、大嘘です。
「誰も助けてくれない=自分が悪い?」と思い込んでしまう
前述の事実があるからこそ、
そう考え、イジメの事実を知っていても見て見ぬふりをする人が大勢居ます。
私が普通に学校に通えるようになる少し前、そのことを謝ってきた友人がいました。
しかし、誰も助けてくれない・かばってくれないことによって、いじめられている本人はいよいよ「いじめられる側にも原因がある説」を信じるようになってしまいます。
過去の私がそうだったように「イジメの事実を知っているのに誰も助けてくれない」という事実を目の当たりすると、被害にあっている側はなんの落ち度がなくても「自分が間違っているのかもしれない」「自分がおかしいから誰も助けてくれないんだ」と思い込み、どんどん抵抗できなくなっていくケースもあるのです。
相談できないジレンマがさらに本人を追い詰める
「声を上げれば助けてもらえるかも」という可能性に気づくイジメ被害者は大勢います。
いえ、むしろその可能性に気づかない人は居ないのではないでしょうか。
しかし、それを実行できない理由も同時に存在していて、
- 誰かに相談(告げ口)することで、報復としてもっとひどい目に遭うかもしれない
- 相談しても、事態が100%解決できるか分からない
- イジメに遭っていると人に知られるのが恥ずかしい
などがその一例です。
と思う方もいるかもしれませんが、いざ自分がその立場になったとしたらどうですか?
自分にとって怖い相手を逆上させるかもしれない選択肢をわざわざ選びたいですか。
あんな奴にイジメられてるのか、情けない、格好悪い、と好奇の目にさらされる可能性があっても、声をあげることができますか。
100%事態が好転するか分からないなら、それはもはや賭けでしかありません。
万が一その賭けに負けた時、今度はもっと酷い目に遭うかもしれないのにわざわざ賭けたいと思う人は少ないでしょう。
それならいっそ口をつぐんでしまおう、自分が我慢しようと思う人がいても不思議ではないですよね…。
相談されたら「話してくれてありがとう」と伝えてほしい
上記で挙げたような理由で、相談したくてもできないジレンマに一番苦しんでいるのは被害者自身です。
勇気を出し、重い口を開くことは過去の私にはどうしてもできませんでした。
もし、この記事を見ているアナタがイジメの事実を相談されることがあれば、被害者を「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」と問うのではなく「話してくれてありがとう」と伝えてあげてください。
それだけで「自分は間違っていなかった」「話してもいいんだ」と安心する人もいるのです。
イジメが原因で自らの命を絶とうとしている人へ
前記事の冒頭でも言いましたが、あなたがその選択肢を選ぶ必要はどこにもありません。
抵抗することができないなら全力で逃げていいのです。
たとえ親や教師、周囲の人間に非難されようと、逃げて逃げて逃げまくって、自分の尊厳を傷つけようとする相手から逃げてください。
でも、そのための手段としてたった一度しかないあなたの人生を手放すことはしないでほしい。
世の中には、私よりもずっと辛くさらに苦しいイジメ被害に遭った人が大勢居ます。
絶望の淵に立ったとき、過去の私がそうだったように「自らの命を絶つこと」それだけが最後の抵抗・最後に残された逃げ道に思えるかもしれませんが、そんなことはありません。
あなたには、あなたの人生を楽しみ、謳歌する権利がある。
同時に、あなたにはあなたを幸せにする義務もある。
誰かの手によってそれが侵されたり、歪められることを許してはいけない。
どんな理由があろうとも、それだけは揺るがない事実です。
自分を愛し、守ってあげられるのは あなた自身
最後の最後、自分を愛し守ってあげられるのは他の誰でもないあなた自身です。
親兄弟、友人、教師ではありません。
ボロボロに傷ついていても、守る価値がないように思えても、その体とこれから歩む未来を守ることができるのは最終的にはあなた自身しか居ないのです。
今は辛くても必ずいつか、傷つき泣いた「あなた自身」を愛しく思える日が来ます。
かつての私がそうだったように。
そして、今の私がそうあるように。
キッカケは人それぞれです。偶然そのキッカケを見つける人もいれば、自ら掴みに行く人だっているでしょう。
でもそのキッカケは生きていることが前提です。
足元に転がっているかもしれないその小さなキッカケを、みすみす見失うなんて勿体ない。そうは思いませんか。
イジメの記憶は忘れなくてもいい
ひどい仕打ちや乱暴な言葉で傷つけられたことを無理に忘れる必要はありません。
そもそも、忘れようと思ってもそう簡単に忘れられるものではありません。
この記事を書くにあたり私も過去の記憶を辿りながらの作業になりましたが、20年近く昔のことでも鮮明に覚えていたほどです。
辛い記憶を無理に忘れる必要はありませんが、それを糧に生きることはできる。
私自身、過去の経験があったからこそ今の私があると思っています。
もちろん、イジメを経験することなく人生を歩めればそれに越したことはありませんが、すべて経験したうえで成り立っている今の自分が私は結構気に入っています。
間違ったり、落ち込んだりすることもあるけど、そのどれもあの頃味わった辛さに比べればちっぽけなものです。
あの頃の悲しさに比べればちっぽけだ、そう言える今の自分の強かさは、かつての私が喉から手が出るほど欲しかった自分像かもしれません。
イジメによって味わった記憶が辛ければ辛いほど、「同じ目に遭わせてやりたい」「苦しませてやりたい」と思うのも当然です。
そんなこと考えるなという方が無理でしょう。
しかし、過去の自分が苦しめられたような暴力や理不尽な言いがかりで復讐したところで、昔の経験はなかったことにはなりませんし、あなた自身の経歴や評判に傷がつくだけです。
跳ね返ってくるであろうリスクを上手くかわせるなら、復讐に手を染めるのも1つの手ではありますが。
が、私が選んだのは復讐ではなく、あくまで自分を愛し大切にする人生でした。
言葉は悪いかもしれませんが過去に苦しんだイジメの経験も、今の自分を形作るための言わば踏み台に過ぎなかった。
そう考えています。
命を絶つ選択肢まで考えるほど追いつめられた。
それでも生き抜いた。
逃げはしたけど、負けなかった。
これは私の誇り。
日々生活していると、それなりに辛いことしんどいこともありますが、おそらく今後も私は負けません。
復讐を目標に自分を磨くのも良いですが、同時にあの時足りなかった勇気を今後の人生で訪れるかもしれない「ここぞ」という時までチャージしておきたいと思っています。
さいごに
ここまで私の過去の経験とそこから見出したイジメに関する個人的な意見を綴ってきました。
異論、反論のある人ももちろん居ると思います。
でも私自身は、あの時あの選択を選ばなくてよかったと思うことがその後何度もありました。
「生きててよかった」と思う瞬間が数えきれないくらいあったのです。
「お気に入りのものに出合えた」
「前失敗した仕事が今日は完璧にできた」
「尊敬する人に褒めてもらえた」
などなど、ちっぽけで些細に見えることも含めて。
でもこれはすべて生きていなければ味わうことができないことばかり。
人間はいつか必ず終わるときが来ます。
どうせならその前に、できるだけ多く「楽しい」「美味しい」「嬉しい」そんな明るい気持ちを味わっておいたほうがお得だと思いませんか?
さいごに、まさに今イジメで苦しんでいる人へ私からのお願いです。
私が大丈夫だったようにあなたもきっと、大丈夫です。
今のあなたからは想像もできないほど、未来のあなたはきっと楽しくて幸せで素敵な出会いにも恵まれているはず。
まだ見ぬ友人やパートナー、素晴らしい人がどこかであなたを探しています。
その出会いを通してあなたは新たな自分を発見することだってあるかもしれません。
だからどうか、あなただけは、いつまでもあなた自身の味方で居てあげてくださいね。
あなたの未来が色鮮やかなものになるように、ここで祈っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。